戸山フロイト研究会公式サイト

早稲田大学非公認サークル・戸山フロイト研究会公式サイトです! 精神分析について学んでいる方、学びたいと思っている方、お気軽に部室(学生会館E515)まで遊びに来てください。

戸山フロイト研究会設立に際して

 

19世紀末から20世紀初頭に亘って行われたフロイトの仕事は、彼が創設した精神分析の枠内にとどまらず、あらゆる領域に影響を及ぼしてきました。ジル・ドゥルーズジャック・デリダなど、20世紀を代表する哲学者はみなフロイトの影響を受けて出発していますし、フロイトの後継者であるジャック・ラカンの仕事が、現代思想の文脈に大きな影響を与えたことは周知のとおりです。それ以外にも、たとえば精神分析批評は批評理論の中で大きな流派を形成しました。狭義の文学にとどまらず、絵画批評や映像批評の分野においても、精神分析理論を用いた読解が試みられています。さらにラカンの影響を色濃く受けた哲学者のスラヴォイ・ジジェクが、文芸批評にとどまらず、アクチュアルな政治分析にラカン理論を応用したことも、現在では広く知られています。また近年は脳科学の分野でも、『心理学草案』などのフロイトの仕事の再評価が進んでいます。

精神分析理論を批評など他の分野に応用することは、『モーセという男と一神教』などフロイトの後期の仕事でも行われていることであり、充分価値のあるものといえるでしょう。これらはフロイト思想の広がりを再確認させてくれます。しかしその中で、フロイトが何よりも情熱を注いだ精神分析それ自体が忘却される傾向にあるとは言えないでしょうか。これは特にラカンにおいて顕著だといえます。ラカン理論は現代思想や精神医学の分野で広く受容されましたが、実際に分析主体analysantとして分析を行う人々、または分析家analysteとして臨床活動を行っている人々はいまだ僅少です。しかしフロイトラカンの理論があくまで実際の精神分析活動のために構築されたことは言うまでもありません。それにもかかわらず、彼らの真の意図がいまだ顧みられないまま、フロイトラカンは後続する人々の仕事によってすでに乗り越えられたとする意見ばかりが、我が国においては蔓延していると思われます。

確かに、症状の治癒という点に関しては、現在であれば精神分析よりもより効果的で、リーズナブルな治療法が多数存在しています。しかし精神分析の目標は、決して症状の治療にはありません。フロイト自身言っているように、むしろそれは二次的なものです。精神分析の向かう道は、患者が自らの人生を受け入れ、自分の人生を生きられるようになることにあるといわれます。それは症状の解消、トラブルの解決などといった外面的・客観的事実によっては観察できない、患者固有の主体的次元における解決であり、患者が自らの特異性において独自に編み出す解決です。もちろんその解決は症状と密接に関係にありますが、しかしただ症状が解消しても解決とはなりませんし、翻って言えば、たとえ症状が解消しなくとも(外面的・客観的状態がどうであれ)、分析を終えることは十分に可能です。*1精神分析は単に症状を治癒するための技法ではなく、患者が自らの生を生きるための営為であるといえます。

 戸山フロイト研究会では、こうした一つの営為としての精神分析を踏まえながら活動を行うことを目標にしたいと思います。といっても、研究分野を臨床に限るということではありません。フロイトの影響を受けた哲学思想・文芸批評なども、フロイト理論の広大さを体現する豊かな分野であり、それらをまったく無視してしまうことは重大な損失です。したがって当会ではこれら周辺分野の研究も盛んに行っていきます。しかしそれでも、つねに一つの営為としての精神分析を忘れずに研究を進めていきたいと思います。なぜなら、それこそがフロイトに忠実であることであり、フロイトを尊重するために何より重要なことであるからです。

2014年8月

幹事長・片岡一竹

 

*1:症状は一つの享楽jouissanceでもあります。享楽とは、フロイトが言った欲動Triebの満足にラカンが与えた名ですが、主体の根源的な満足を指すものです。精神分析の目標は、患者の享楽を変えることにあります。症状に苦しみ、分析家のオフィスを訪ねる患者は、自らの症状によって得られる享楽に苦しんでいます(なぜなら享楽は、時に苦痛をもたらすこともある快楽であるからです)。この苦しい享楽を違った形の享楽に変えることが、分析の中で行われます。そして分析が集結する際に形作られる享楽は、患者独自の享楽であり、それが結実したものをラカンはサントームsinthomeと呼びました。これは症状symptômeの古い綴りです。つまり、精神分析の最終的な目標は症状の解消ではなく、主体独自の症状(サントーム)を作り出すことにあります。